ビザンティン帝国略史
「ローマ帝国」の最期

 後期 その2

2.「ローマ帝国」の最期

帝国の滅亡(パライオロゴス朝2)
14世紀になるとビザンティン帝国の領土は、コンスタンティノープル周辺と、ギリシャに残る小候国のみにまで縮小し、帝国はオスマン・トルコ帝国の属国と化してしまった。14世紀末の皇帝マヌエル2世(在位1391-1425)は西欧に援助を求めて遠くイングランドまで旅をしたが援助は得られず、帝国はコンスタンティノープルをかろうじて維持するのみとなってしまった。 1402年にスルタン・バヤジット1世率いるオスマン・トルコ軍がアンカラの戦いでティムールに敗北し、オスマン・トルコ帝国が一時解体するというチャンスにも、何も失地回復のために動くことが出来ない程に帝国の力は落ち込んでしまっていたのだ。

マヌエル2世の死後も、2人の息子ヨハネス8世(在位:1425-1448)コンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1448-1453)が東西教会の合同や西欧への援軍依頼など帝国維持への努力を重ねたが全て失敗し、ついに1453年、オスマン・トルコの若きスルタン、メフメト2世率いる10万の大軍の包囲を受けるに至った。
皇帝コンスタンティノス11世は降伏を拒否し、帝国の人々は7千対10万という圧倒的不利な状況の中、2ヶ月にわたって戦い抜いた。しかし、1453年5月29日未明、トルコ軍の総攻撃の前にコンスタンティノープルは陥落、コンスタンティノス11世はなだれ込んでくるトルコ軍の中に姿を消し、ここにビザンティン帝国は1000年にも及ぶ、その長い歴史を閉じる事となった。残ったギリシャ系国家も1461年にはトルコに全て征服され、ギリシャ人は19世紀までその独立を奪われたのである。

ビザンティン帝国の滅亡後もドイツには「神聖ローマ皇帝」がおり、また、ロシアのモスクワ大公イヴァン3世がコンスタンティノス11世の姪ゾエ・パライオロギナと結婚して「皇帝(ツァーリ)」を名乗り、モスクワは「第3のローマ」と称した。しかし、コンスタンティノス11世の戦死を以って初代の「元首」アウグストゥス以来の正統なローマ皇帝は絶え、ローマ帝国は完全に滅びたのである。

帝国滅亡後、イタリアへ亡命したギリシャ人達によって、ギリシャ古典文化が伝えられ、イタリア・ルネサンスの起爆剤となった。また、東欧・ロシアにおいては正教の伝統が残った。
帝国は滅んだが、その伝統は形を変えててヨーロッパに受け継がれているのである。

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