国制の変化
貴族連合政権と帝国の分解

@ 「古代ローマ帝国」の終焉 A危機の時代−帝国の変質 B専制君主制の最盛期と貴族の台頭 C貴族連合政権と帝国の分解

C貴族連合政権と帝国の分解

大きな土地と強い私兵を持つ軍事貴族の力が強くなった11世紀後半、コムネノス朝のアレクシオス1世によって帝国の再編が行われる。
自らがコムネノス家という軍事貴族の生まれであるアレクシオスは、もはや官僚制の上に立った専制君主としてでは帝国を統治出来ないと判断したのである。アレクシオスは、各有力貴族とコムネノス家の間に姻戚関係を結んだ。また爵位体系を改め、新設した高位の爵位を姻戚を結んだ貴族に与え、皇室と貴族の間の絆を強くした。また、アレクシオスは、従来名目上は皇帝の土地とされていた国土の、貴族による大規模な私有を認め、その代わりに軍務を負わせる「プロノイア制度」を確立した。かくして貴族達は「皇帝の奴隷」ではなく「皇帝の友人」となり、帝国は西欧の封建制に近いものとなったのである。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノープルを陥落させた後もギリシャ人達が各地で抵抗し、亡命政権を樹立した背景には各地の貴族達が土地に根付いていたことがあったのである。

このような事情のため、ニカイア帝国の実権を握ったパライオロゴス家がコンスタンティノープルを奪回した後も、コムネノス家のトレビゾンド帝国やアンゲロス家のエピロス専制侯国は存続し、かつてのような統一された帝国は甦らなかった。また、復活したビザンティン帝国の内部も多くの貴族の土地に分割されていた(この時期になるとプロノイア制さえ崩壊していた)。このように民族として統一出来なかったということもオスマン・トルコやセルビアによって帝国が窮地に立たされ、後に帝国が滅亡する一因ともなったのである。

なお、コムネノス朝以降も「専制皇帝」という建前は残され、また官僚制も無くなった訳ではない。が、かつてと違って肥大化した官僚制には不正が多く、非効率で、しかも文人官僚と軍事貴族の対立もあったため、帝国衰退の一因をなした(帝国が衰退した最大の要因は世界システムの大きな変化によるのであろうが)。

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