概説・帝国の国家財政




ここでは帝国の国家財政について軽く述べていきたいと思う。下記の表は9世紀中頃の帝国の財政を示した表である。

歳入
歳出
項目
金額
項目
金額
土地税 1,125 軍事費 2,288
世帯(かまど税) 1,250 テマ(地方)軍給料 1,130
付加税(20%) 475 タグマ(中央)軍給料 327
特別軍事職 70
商業税 150 不正規軍 15
その他(直轄領、官営工場他) 300 海軍こぎ手給料 540
戦艦将校 31
遠征費 125
その他 50
文官等給料 452
中央官庁 57
デーモス(儀式関係) 45
宮廷職 25
属州文官 35
属州徴税官(土地・世帯税) 250
〃(商業税) 15
官営工場職人 25
その他 100
建築事業、贈与等 100
歳入総計 3,300 歳出総計 2,840
単位は1,000ノミスマ (剰余金) 460
皇帝ミカエル3世、テオドラ摂政時代(842-856年)の国家財政

(井上浩一/粟生沢猛夫「ビザンツとスラブ」<中央公論社>p68より)


9世紀頃のビザンティン帝国はその当時の西欧諸国と違って徴税機構が整っていた国家で、役人達が徴税マニュアルに従って確実に税を集めていたために皇帝は都でゆっくり生活できた(当時の西欧諸国の国王は、租税が都に集まって来ないために、食い扶持を求めて王領地から王領地へと宮廷ごと移動していた)。

帝国の税制の大半を占めるのは土地税と世帯税で、主に農民から徴収された。商人から取り立てる商業税は、商人の収入が把握できないため徴収にはてこずったようで(これは今の日本でも同じ)、9世紀はじめの皇帝ニケフォロス1世などは、かなり強引に税金を徴収したという(かなり儲けているという噂のろうそく商人を宮殿に呼び出し、財産を白状させた上で財産を巻き上げたらしい)。これが、11世紀以降になると大土地所有者である貴族の土地には課税できなくなった(その代わりに貴族の軍役奉仕があったが)ために、皇帝は自らの直轄領地からの税収で国家財政を賄わなければいけなくなった(13世紀のニカイア皇帝ヨハネス3世は、直轄地での農業と牧畜で懸命に収益を上げている)。

歳出の方はというと、軍事費が大半である。絶えず異民族と戦わねばならない帝国の地政学的条件からして当然の事とも言える。この頃は農民による租税と兵役(武具は自前で用意した)負担が機能していたために、これでもかなり安く上がっていた。
一方、建築事業や灌漑などの公共事業の類はほとんどしていない。が、当時の帝国の戦争は防衛戦争であった。異民族の侵入で農地を荒らされることを防ぐことこそが、最大の公共事業だったのであり、農民が兵役を担っていた理由も、そこにあったのである。10世紀以降、経済力を背景に帝国の軍事活動が防衛ではなく外征に変わると、経済発展の影響で貧富の差が開き始めていた農民には軍役負担ができなくなったために、軍隊を傭兵に頼らざるを得なくなり、その分だけ軍事費がかさんでいくむことになる。更に、緊縮財政政策を取って国庫の貯蓄を増やしたバシレイオス2世のあとの11世紀中頃の皇帝達が建築事業などに莫大な金を投じたために、国家財政は赤字に転落していくのだった。

次に文官の給料を見てみよう。デーモス(儀式関係用に雇われた「市民」役)の費用が中央官庁の官僚の給料に匹敵するところが、いかにも儀式を重要視するビザンティン帝国らしい。金だけかかっていて、業務の邪魔にしかなってないイメージが強いビザンティンの文官だが、この頃はさほど経費がかかっていない。

官僚が金食い虫になるのは、11世紀後半以降、前述のような財政赤字を補おうと官位売買をしたために給与を払う相手が膨大に増えてしまったからである(要は赤字国債を出し過ぎたために払う利息が莫大な金額になってしまったのだ−まさに今の日本ではないか)。
こうして衰えた財政はコムネノス朝期にいったん回復されるものの、その後の帝国の衰退に伴って再び衰えていき、イタリア諸都市からの借金ばかりが増えていった。パライオロゴス朝の末期には皇帝の冠、挙げ句の果てにはテサロニカの街まで借金のカタにされる有り様であり(テサロニカをヴェネチアに売り渡したことに怒ったトルコ軍はテサロニカを陥落させた)、帝国の末路をことさら悲惨なものにしていったのである。





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