帝国史を彩った諸民族
ギリシャ人



古代ギリシャ文明を生み、ヨーロッパの文化の基礎を成す(キリスト教と並んで)ヘレニズム文化を生み、ビザンティン帝国でも主役を演じたギリシャ人。しかしながら、ビザンティン帝国時代の彼らについて書くのは実は少々難しい。帝国にどのくらいのギリシャ人がいたかということについても、現代のギリシャ人の民族主義者は「帝国の住民のほとんど」という説を出すが、帝国の住民の3割くらいしかいなかったという説もある。

一般的に、民族を定義するのには人種・血統・言語・文化・宗教といった尺度が用いられるが、これで判別することが難しいのだ。
1923年にトルコとギリシャが住民強制交換を行った際には、「ギリシャ人」というのが定義できず、仕方が無いので「キリスト教徒(東方正教会)はすべてギリシャ人」ということで処理されたくらいなのである。

人種・血統という観点で言うと、ギリシャがあるバルカン半島は古代から様々な民族が錯綜していたために民族の混合が甚だしい。ポリス制の頃のギリシャ人自体がすでにドーリア人やイオニア人などによる混成民族だったし、ヘレニズム時代にはギリシャ人がオリエント各地(メソポタミア・シリア・エジプトなど)へ拡散して現地の民族と混じり、古代ローマ帝国治下では当然ローマ人(ラテン系民族の)との混合もあった。
そして、ビザンティン帝国の時代には、帝国の暗黒時代である7世紀にスラヴ人がギリシャ南西部のペロポネソス半島(古代の有力ポリスであるスパルタがあったところ)まで南下、定住し、ギリシャ人と混合、その後8世紀以降に帝国が支配権を回復したことによって、南イタリアや小アジアへ逃れていたギリシャ人が戻ってきたこともあって、ギリシャ化されたスラヴ人(ヘレナイズド・スラヴ)が生まれた。
そのため帝国滅亡後の19世紀に、オスマン・トルコから独立しようとしたギリシャ人を支援しようと沸き立つ西欧諸国に対して、ドイツ人歴史家のフェルメライヤーは「現在のギリシャ本土のキリスト教住民の血管には、古代ギリシャ人の血液は一滴たりとも流れていない」と冷や水を浴びせたのである。

言語・宗教・文化の面で見れば、ギリシャ語やギリシャ文化は、ヘレニズム時代や古代ローマ帝国の時代には東地中海のスタンダードになっており(ローマ帝国の東半分はギリシャ語が準公用語化していた。だから7世紀に帝国の公用語がギリシャ語になったのは必然的なことであった)、小アジアやバルカン、シリア、パレスチナの血統的にはギリシャ人ではない民族もこれらを用いていたし(例えば小アジアのアッタロス朝ペルガモンはヘレニズム王国だが、ギリシャ人の立てた国ではない)、ローマの文化に至ってはほとんどギリシャ文化の模倣である。宗教はキリスト教の東方正教会であり、帝国治下の住民のほとんどが信奉していた。

さらにビザンティン帝国時代の「ギリシャ人」を難しくするのは、当のギリシャ人自身が「ギリシャ人」と呼ばれることを拒否し、「ローマ人」と自称していたことである。
ギリシャ人に限らず「民族」というものは、実は非常に曖昧な概念であり、現代の旧ユーゴの諸民族のように民族への最終的な帰属は、本人の自意識・自称に頼るしかないのだが(例えば、クロアチア人・セルビア人・ムスリム人・モンテネグロ人の話す言語はみなほぼ同じ)、それさえ使えないのである。

そもそも、インド・ヨーロッパ語族の一派である古代ギリシャ人は、自分達を「ヘレネス」と呼び、他の民族を「バルバロイ(鳥のように訳の分からない言葉を話す奴等)」と呼んでいた。これには当初は雅称も蔑称もなかったが、紀元前5世紀の対ペルシャ戦争勝利後に「ヘレネス選民意識」と「バルバロイ蔑視」が生まれた。
その後もマケドニア、ローマに軍事的には支配されながらも、文化的な支配者として「ヘレネス」の呼称を誇りつづけていたが、4世紀のコンスタンティヌス帝のキリスト教改宗以降ローマ皇帝権とキリスト教が結びつき、その後の民族大移動の荒波の中でローマ帝国の住民達は「天にただ一つの神の王国があるように、地上にはただ一つのローマ帝国がある」と信じるようになった。
しかも、それまでの宗教やギリシャ哲学が禁止されるようになり、それまでのギリシャ人の誇りであったオリュンピア競技会(古代オリンピック)やアカデメイアが廃止されるようになり、誇り高き呼び名であった「ヘレネス」は、いつの間にか「おぞましき古代の異教徒」という意味に変わり、敬虔なギリシャ在住のキリスト教徒達はギリシャ語で「ローマ人」を意味する「ロマイオイ(ロメイ)」と自称するようになったのである。つまり「正当なキリスト教を奉じ、ローマ帝国の臣民であるもの=ローマ人」だったのだ。10世紀の文人皇帝コンスタンティノス7世"ポルフュロゲネトス"(在位:913‐959)に至っては著書「テマの起源について」の中で、ヘラクレイオス帝(在位:610−641)が公用語を帝国の実態に即してラテン語からギリシャ語に改めたのを「父の言葉を捨てた」とギリシャ語で書いているのである(そういうコンスタンティノス7世もヘラクレイオスも、実はアルメニア系なのだが)。彼らのアイデンティティはあくまでも「ロマイオイ」であり、「ヘレネス」ではなかった。
だが、その一方で「ローマ人」と称しつつも、ビザンティン帝国時代のギリシャ在住の住民達は、古代以来の文化(キリスト教化されていたが)を保ち(例えば、ビザンティン時代の教養人はホメロスの詩を暗誦できるのが常識だった)、古代からの習慣(例えば、長男には自分の父親の名前をつけることなど)やギリシャ語を守り続け(歴史書や神学書などは、古典ギリシャ語で書かれた)、古代からの商才を発揮しつづけた。


帝国末期の15世紀になると、ゲミストス・プレトーンのような一部の知識人は「自分達はヘレネスの直系の子孫なのだ」と主張するようになった(プレトーンという名前自体、古代の大哲学者プラトンにあやかって付けたもの)が、同じ頃の知識人で帝国滅亡後にオスマン・トルコに指名された初代のコンスタンティノープル総大主教ゲオルゴス・ゲンナディオスは、こう言っている。「私は語る言葉の点ではヘレネスの一人であるが、決してそのように思われたくはない……私はキリスト教徒なのだ」。
結局、オスマン・トルコ帝国治下でも大半のギリシャ人が「ロマイオイ」と称しつづけた。彼らが「ヘレネス(現代ギリシャ語ではエリネス)」という意識を取り戻しはじめるのは、19世紀にオスマン・トルコ帝国からの独立運動が始まってからのことである(現代のギリシャ共和国のギリシャ語名は、「エリニキ・デモクラティア」である)。


ギリシャがトルコから独立してから100年以上が経った。その間ギリシャはファシスト・イタリアやナチス・ドイツの侵略を退けて独立を保ち、現代のギリシャはEU加盟国となっている。しかし、現代のギリシャは古代の「ヘレネス」でもなければ、中世東ヨーロッパの雄であった「ローマ帝国」でもない。
現代のギリシャ人はヨーロッパ文明の祖である古代ギリシャ文明を誇りにしている。しかし、未だにギリシャ人にとって単に「ポリス」といった場合には、それはアテネではなくコンスタンティノポリスを指すというし、「真っ赤なギリシャ人のホント」という本によると、ギリシャでは今だに「ローマ人の諸君」と呼びかけることがあるという。いまだにギリシャ人達のアイデンティティは「ヘレネス」と「ロマイオイ」の間で揺れ動いているのである。




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