ビザンティン皇帝の綽名

ヨーロッパ諸国には綽名が付いた国王や皇帝が存在する。例えばイングランドのエドワード懺悔王やジョン欠地王、ドイツ・神聖ローマ帝国のフリードリッヒ赤髭帝などである。
古代ローマ帝国でも、カリグラやカラカラという名前は実は綽名であり、本名はそれぞれ「ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス」「マルクス・アウレリウス・アントニヌス(五賢帝の最後と同名)」であった(全然本名と違うじゃん)。

ビザンティン帝国においても例外ではなく、綽名の付いた皇帝が存在する。ここでは、その中でも有名な5人をピックアップしてご紹介しよう。

コンスタンス2世"ポゴナトス"(在位641-668)
「髭の」という意味。かつては息子のコンスタンティノス4世の方が「ポゴナトス」だと思われていた。
ところで「コンスタンス」というのは「小コンスタンティノス」の意味で、それ自体が綽名とも言える(このため彼を正式に「コンスタンティノス」として数えると、その後の「コンスタンティノス○世」もそれぞれ数字がずれる)。


ユスティニアノス2世"リノトメトス" (在位685-695,705-711)
「鼻削がれ男」の意味。反乱によって1度帝位を追われた時に鼻を削がれたため(理由ここ参照)。
彼は黄金製のつけ鼻を付けて再起を誓い、反乱を起こして帝位に返り咲くが、その後やったことは反逆者への復讐のみだった。


コンスタンティノス5世"コプロニュモス(在位:741-775)
「糞」という意味。彼自身は有能な軍人であり、行政家だったが聖像破壊を徹底させようとしたために、このような不名誉な綽名がついた。
逆に、帝国初の女帝となるエイレーネーは実の息子であるコンステンティノス6世の目を潰して帝位を奪ったにもかかわらず、聖像崇拝を復活させたということで教会から聖人に列せられている(ビザンティンの人間の、この辺の感覚がよくわからん)。


コンスタンティノス7世"ポルフュロゲネトス"(在位:913-959)
帝国史上有数の文人皇帝であったコンスタンティノス7世の綽名は「緋色の産室生まれの」の意。コンスタンティノープルの大宮殿には緋色の内装が施された産室があり、皇妃はそこで子供を産むことになっていた。「緋色の産室生まれの」というのは「れっきとした皇帝の嫡子」を意味したのである。
だから、他にも「ポルフュロゲネトス」という名前が付いた皇帝は何人もいたはずなのだが、何故か彼だけに綽名として定着している。「学問ばかりしていたお坊ちゃん」だったからであろうか。



バシレイオス2世"ブルガロクトノス"(在位:976-1025)
帝国の最盛期を現出したこの皇帝の綽名は「ブルガリア人殺し」。1014年にビザンティン帝国がブルガリアを打ち破った際、ブルガリア人の捕虜100人につき1人を残して全員の目をくり抜き、残った者も片目を潰してブルガリア王のもとへ送り返したという。これを見たブルガリア王は卒倒し、まもなく死去。こうして第1次ブルガリア王国はビザンティン帝国に屈服し、帝国はバルカン半島のほぼ全域の支配権を回復したのであった。

*12世紀にブルガリアが再独立した(第2次ブルガリア)のち、ブルガリア皇帝カロヤンは「ローマ人殺し」と自称し、ビザンティンを攻撃した。復讐ですな。


その他
テオドシウス2世の「能書家」、ミカエル3世の「飲んだくれ」、レオーン6世の「哲学者」などの綽名があった。
またレオーン5世の「アルメニコス」やミカエル4世の「パフラゴニオス」などは、皇帝自身の出身地を表したものである。



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