ビザンティン帝国略史
前史

 前期 その1

1.前史

紀元1世紀から2世紀、ローマ帝国は「ローマの平和」と呼ばれる繁栄の時代を迎えていた。
しかし、2世紀の末から帝位はめまぐるしく入れ替わり、パルティア、のちにはササン朝ペルシャの侵入も多発するなど、長い混乱の時代を迎えることになる(軍人皇帝時代)。その混乱を収拾したのが、ディオクレティアヌス帝(在位:248-305)である。彼は帝国の東西の正帝と副帝による4分統治、専制君主制への移行などの改革を行って帝国を立て直すことに成功した。

しかし、ディオクレティアヌスの引退後は再び帝位争いが起きたが、それに勝ち抜いたコンスタンティヌス1世(大帝。在位:306-337)がローマ帝国の単独皇帝となり、ディオクレティアヌスがはじめた専制君主制の強化を進め、さらに官僚制の整備、身分の固定、それまで迫害されていたキリスト教の公認などの政策を進め、帝国を再建しようとした。

当時、ローマ帝国は、対ペルシアの戦略的重要性と、もともとの経済力のために東側の方に重点が置かれていたが、コンスタンティヌスは330年ビザンティウム(現在のイスタンブール。ギリシャ語名ビザンティオン)に首都を遷し、コンスタンティノポリス(ラテン語形。中世ギリシャ語ではコンスタンディヌーポリス。英語名ではコンスタンティノープル)と改名した。(注 コンスタンティヌスはここをローマに代わる新しいキリスト教ローマ帝国の都にしようとしたのであり、この都市が、こののち1453年までビザンティン帝国の首都となるのである(もっとも彼の後継者達はテオドシウス1世の時代になるまで、ここに居住しない皇帝が多かった)。

コンスタンティヌスの再建も空しく、彼の死後はゴート人などのゲルマン諸民族やササン朝ペルシャ帝国の侵入が激化し、広大な帝国を1人で治めるのは困難となった。はじめてコンスタンティノープルに常住し、キリスト教を国教と定めたテオドシウス1世(大帝。在位:379-395)の没後、帝国は東西に分割され、2人の息子アルカディウス(東)とホノリウス(西)に与えられた(2人とも無能なバカ息子だったらしいが)。これがいわゆる「ローマ帝国の東西分裂」である。これはディオクレティアヌスの4分統治のように1つの帝国を分割統治する意図で行われたことで、決してローマ帝国を2つの国家に分裂させようとするものではなかった、しかし徐々に東西の政府の間は疎遠となり、5世紀に入ると両者は対照的な運命を辿ることになるのである。

(注 - 正確には「新ローマ」という名前もついていたらしい。現在でもコンスタンティノープル総主教の称号は「コンスタンティノープルの大主教、新ローマとエキュメニカルの(世界の)総主教」となっている。

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