ビザンティン帝国略史
「末期ローマ帝国」の時代

 前期 その2

2.「末期ローマ帝国」の時代

@ 東西分裂時代(テオドシウス朝・レオ朝)
すでに東ローマ帝国では、フン族のアッティラ王の侵入に対して、テオドシウス2世がコンスタンティノープルに強固な城壁(これがのち1000年にわたって帝国を守ることになる)を築く一方、貢納金を払って西に移動してもらうなど、攻撃をすべて西ローマに振り向けて自国を守ろうとするようになっており、西ローマ帝国に侵入するフン族やゲルマン民族に対しても東の帝国はまったく援軍を出そうとはしなかった(例外として468年に時の東ローマ皇帝レオ1世が、北アフリカのゲルマン人国家−ヴァンダル王国に海戦で挑んだことがあるが、この時は大敗している)。

ゲルマン民族の侵入と、宮廷紛争で弱体化した西ローマ帝国では、476年にはゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位されると、ついに西の皇帝を称する者は誰もいなくなってしまった。 この時、東ローマ皇帝ゼノン(在位:474-475,476-491)は、オドアケル、ついでそれを倒した東ゴート王テオドリックにイタリアの王(パトリキウス)の称号を授けた。このためローマ皇帝を称するものは、コンスタンティノープルの皇帝だけとなり、旧西ローマ領のゲルマン民族の各部族は、東ローマ皇帝の名目的宗主権の下に自分達の王国を作ることとなった。 これが、いわゆる「西ローマ帝国の滅亡」だが、コンスタンティノープルを首都とするローマ帝国は引き続き存在していたため、同時代の人々にとっては、ローマ帝国の滅亡を意味したものではなかった。

*オドアケルが最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位した際、東ローマ皇帝ゼノンに西ローマ皇帝の位を返上したため、名目的にはゼノンが東西をあわせた全ローマ帝国の単独皇帝となったのである。コンスタンティノープルの皇帝が「唯一のローマ皇帝」を主張した根拠はここにあった。

A 古代ローマ帝国最後の繁栄(ユスティニアヌス朝)
東ローマ帝国では名君アナスタシウス1世(在位:491-518)の下で、肥沃な穀倉地帯であるシリアやエジプトを擁することもあって国庫は豊かになり、北からの蛮族の攻撃をはね返せる力をつけていた。

527年に即位した、農民あがりの皇帝ユスティニアヌス1世(大帝。在位527-565)は、長年の宿敵ササン朝ペルシャ帝国と和解して東の国境を安定させると、旧西ローマ帝国領を征服すべく、増税を行って着々と戦争準備を整えた。その重税には首都の市民が反発、蜂起(「ニカの乱」)するが、これを武力で鎮圧、古代ギリシャ以来の民主制の伝統を完全に打ち消し、ディオクレティアヌス帝以来進められてきた専制君主制を確立した。この時反乱に戸惑って逃亡しようとした帝を制止した、皇后テオドラ(ヌードダンサー出身)の「帝位は最高の死装束である」という言葉は有名である。

その後は聖ソフィア大聖堂の再建(今でもイスタンブールにその壮麗な姿を残す)や征服戦争を行い、ベリサリウスやナルセスといった将軍達に命じて北アフリカ(ヴァンダル王国)、イタリア(東ゴート王国)、スペイン南部(西ゴート王国)などの旧西ローマにあったゲルマン人諸王国を征服して、ふたたび地中海のほぼ全域をローマ帝国の勢力下に置くことに成功。国内的にはローマの諸法・勅令の集大成である「ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)」の編纂など行って、古代ローマ帝国の栄光を蘇らせ、ユスティニアヌス帝は単性論をめぐるキリスト教の教義問題にも積極に介入し、聖俗の両界に君臨した。

しかし、征服した土地は長い戦いの末に荒れ果て(ローマ市の人口は500人にまで減ってしまったという)、戦費や建築費のために国庫は疲弊した。 ユスティニアヌスの死後、その後を継いだユスティヌス2世(在位:565-578)、ティベリウス2世コンスタンティヌス(在位:578-582)、マウリキウス(在位:582-602)の3人の皇帝達には広大な領土を維持するという重荷を背負うことになった。もはや帝国の財政は破綻寸前であり、3人の皇帝達も決して何もしなかった訳ではなかったが余りに荷が重過ぎた。ユスティヌス2世の代にはイタリアの大半をゲルマン人のランゴバルト王国)に奪われ、ペルシャとの戦いも再開。北からはアヴァール人やスラヴ人が侵入し、領土は次々と奪われた。 602年には、アヴァール人・スラヴ人の侵入を迎撃しようとしたマウリキウス帝が軍隊の反乱によって殺害され、その軍隊にかつがれて帝位についたフォカス帝(在位:602-610)の暴政によって国内は混乱。ササン朝ペルシャの侵攻も激化し、帝国は急速に衰退していくのであった。

*一般的なビザンティン帝国に関するサイトでは、帝国の最盛期を領土が最大になったユスティニアヌス帝の治世だとしているが、実際は広大な領土の中は荒廃し、とうてい繁栄したとは言えない。また、旧西ローマでローマ帝国の復活を望んでいた人々も、「ローマ皇帝」ユスティニアヌスの専制的な統治に幻滅し、かえってローマ帝国離れを起こしていったのである。

BACK

NEXT


HOME | 帝国史 | ビザンティン帝国略史 |

1999-2005 Copyright(C) コンスタンティノープルからの使者(The envoy from Constantinople) All Rights Reserved.