ビザンティン帝国略史
ビザンティン帝国の全盛時代と没落のはじまり

 中期 その2

2.ビザンティン帝国の全盛時代と没落のはじまり

@帝国の全盛時代(マケドニア朝1)
6世紀の末から長く混乱が続いていた帝国であったが、9世紀から10世紀にかけて、兵役・租税を担う自立した小農民の存在(ここが荘園制の西欧と大きく違う)と、首都コンスタンティノープルを中心とした商工業の発達(特に官営工場で独占生産される絹織物は西欧諸国の羨望の的であり、「現代における石油に匹敵する力を持っていた」と言われるくらいの有力な輸出品だった)によって財政・軍事力が安定するようになった。

アモリア王朝の第2代皇帝テオフィロス(在位:829-842)および、その子のミカエル3世(在位:842-867)の時代から帝国の興隆がはじまった。 宗教面でもコンスタンティノープル総主教フォティオスの活躍や、キュリロス・メトディオス兄弟らによるスラヴ民族へのキリスト教布教などでコンスタンティノープル教会の権威は増した。


宮廷内の陰謀は相変わらずで、ミカエル3世は867年にアルメニア人出身のバシレイオスによって殺害されてしまう。しかし、そのバシレイオスがバシレイオス1世(在位:867-886)として即位してマケドニア王朝(867-1057)の時代に入ると行政・軍事・文化の面でそれぞれ有能な皇帝が輩出し、フランク王国やアッバース朝イスラム帝国、中国の唐王朝などの大帝国が衰退していくのを尻目に経済・軍事両面で躍進を遂げ、東地中海の強国の地位を取り戻した。 行政面では、イサウリア王朝時代から始まったテマの細分化が完成し、バシレイオス及びその息子レオーン6世(在位:886-912)によって官僚制や法律の整備によって皇帝の専制が完全に確立した。軍事面では、東方では以前とは逆にイスラムに対して攻勢にまわり、北のスラヴ人に対しては、苦しい戦いを繰り返しつつキリスト教の伝道を進めていった。10世紀末には遠くロシアまでもが正教会を受け入れるまでになったのである。

文化面でも発展を遂げた。既にアモリア王朝時代から帝国史上屈指の知識人だったフォティオスらによって古代ギリシャ文化の復興がはじまり、バシレイオス1世の孫の皇帝コンスタンティノス7世"ポルフュロゲネトス"(在位:913-959)の下では、ヘラクレイオス王朝時代以降の暗黒時代に忘れ去られそうになった古典文化の復興が進んだ(マケドニア朝ルネサンス)

10世紀の後半に入るとニケフォロス2世フォカス(在位:963-969)ヨハネス1世ツィミスケス(在位:969-976)バシレイオス2世"ブルガロクトノス"(在位:976-1025)の3人の軍人皇帝によって各地への征服が進められ、東地中海の制海権をイスラムから奪還、その気になればエルサレムやローマをも征服できる程の勢いとなった。

3代目の軍人皇帝バシレイオス2世は、1018年に宿敵ブルガリアを征服してバルカン半島のほぼ全域を回復、かくて専制皇帝バシレイオス2世の支配は、東はアルメニア・シリアから、南はクレタ・ロードス島、北はドナウ川、西は南イタリアに至る全帝国領に行き渡り、国境も安定、地中海最強の帝国として全盛期を迎えたのである。 人口30万を擁する首都コンスタンティノープルは繁栄し(当時のパリの人口は約1万であった)、帝国発行のノミスマ金貨は後世「中世のドル」と呼ばれるほどの強さと信頼性を誇り、国際的貨幣として流通していた。あまりの繁栄のために宮殿の倉庫に宝物が入りきらなくなって、バシレイオス2世の命で拡張されたくらいだったのである。

しかし、繁栄の陰では徐々に貴族による大土地所有制が進み、兵役・租税の基本的な担い手である自立小農民が没落、財政と軍事の安定性が崩れ始めていた。バシレイオス2世はこれを食い止めようと努力したものの効果を上げられないまま、1025年嫡子を残さずに没した。彼の死後、早くも帝国に衰退の兆しが見えるようになったのである。


A下り坂へ(マケドニア朝2)
バシレイオス2世が嫡子を残さずに死去したあと、共同統治者であった弟コンスタンティノス8世(在位:1025-1028)が統治するが、享楽に耽った挙げ句3人の娘のみ(しかも、未婚、かつ40代後半)を残して死去、帝位は娘のうちのゾエと結婚したものに委ねらることになった。このため官僚、貴族や宦官、そしてゾエの思惑も絡んで宮廷内での暗殺や陰謀が多発、さらには首都市民の暴動まで起き、皇帝はめまぐるしく入れ替わった。

そうこうしている間に大土地所有制はさらに進み、兵役を担うはずの自立小農民が消滅、帝国軍は傭兵制に移行し、財政を圧迫するようになっていった。にもかかわらず皇帝達は建築事業などをおこし、宮殿の倉庫にうなるほどあった財宝も失われていった。このため軍事費の削減が行われて軍隊は弱体化。折悪しく、トルコ人やノルマン人の侵入がはじまり、せっかく手にした領土も次々と失い、ノミスマ金貨の悪鋳や売官などのために経済力も衰えていった。 ゾエの3人目の夫コンスタンティノス9世モノマコス(在位:1042-1055)の時代には、コンスタンティノープル総主教ミカエル1世ケルラリオスとローマ教皇レオ9世(正確にはその使節の枢機卿)が相互破門して東西教会が完全分離し、現在にまでそれが続く事になるのである。

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