ビザンティン帝国略史
帝国の中興とその挫折

 中期 その3

3.帝国中興とその挫折

@帝国の中興(ドゥーカス朝・コムネノス朝1)
マケドニア王朝の血統断絶後も帝位は安定せず、帝位をめぐる内乱が続いた。その間に帝国は次々と領土を失っていき、1071年には、皇帝ロマノス4世ディオゲネス(在位:1068-71)率いる帝国軍がマンツィケルト(マラーズギルド)の戦いで、セルジューク朝のスルタン、アルプ・アルスラーン率いるトルコ軍に大敗し、皇帝ロマノス4世自身が捕虜になるという屈辱(ローマ皇帝としては、ササン朝ペルシャの捕虜となった3世紀のヴァレリアヌス帝以来)を受けることとなった。これ以降、小アジアにはトルコ人がなだれ込み、小アジアの大半がセルジューク・トルコ帝国の手に落ちてしまったのである。

そんな中即位したアレクシオス1世コムネノス(在位:1081-1118)は、大貴族に大土地所有を認める代わりに軍事力を提供させる形(プロノイア制度)で帝国を再編成、かくて帝国は軍事貴族の連合体になったのである。またアレクシオスは、トルコ人からの領地奪回のために西欧に援助を依頼、これが第1回十字軍となる。アレクシオスは十字軍を利用して、トルコ人から領地を奪回、またヴェネチアに貿易特権を与えることで経済と海軍力の回復を図った。息子の名君ヨハネス2世コムネノス(在位:1118-1143)は、父の政策を継いで北方のペチェネグ人を討ち、小アジア沿岸部の領土を回復。再び帝国は東地中海の強国の座を取り戻したのである。

ヨハネスの息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143-1180)は、外交戦略を駆使し、またイタリア、キリキア・シリア遠征を行うなど積極的な軍事行動を起こしローマ帝国の栄光を再現しようとした。しかしヴェネチアと対立してヴェネチア人の一斉逮捕を行って関係を悪化させ、イタリア遠征は西欧に反ビザンティン帝国感情を持たせただけで失敗。またミュリオケファロンの戦い(1176年)でセルジューク朝にも惨敗してしまった。マヌエルの努力は度重なる遠征などによる国庫の疲弊、周辺諸国との関係悪化を産んだだけで終わってしまった。 また、

マヌエル2世の死後、幼い息子のアレクシオス2世コムネノスが即位するが、マヌエルの仲のの悪い従兄弟アンドロニコス・コムネノスがせっかく再建されたかに見えた帝国は破滅に向かって転げ落ちていく事になる。

A帝国の破滅(コムネノス朝2・アンゲロス朝)
マヌエル1世の死後、再び帝位は混乱、内紛状態となる。コムネノス家の姻戚であったイサキオス2世(在位:1085-1095)が帝位を奪取してアンゲロス朝が始まるが、イサキオスの怠惰な政策によってブルガリアは再び独立、海軍は弱体化して東地中海の制海権はヴェネチア・ジェノバなどのイタリア都市国家の手に落ちてしまった。 こんな状況にもかかわらず王朝内ではお定まりの帝位争いが頻発、それに介入したヴェネチアなどによって、第4回十字軍はエルサレムから一転して、その矛先をコンスタンティノープルに向けるに至る。既に海軍力を失っていた帝国は十字軍に海から首都を攻撃され、1204年の4月に首都は陥落、十字軍によってラテン帝国が建国(1204-1261)され、各地でギリシャ人たちの亡命政権が抵抗を続けるが、ここにビザンティン帝国は一旦滅びる事になる。 首都陥落時に、十字軍兵士達はコンスタンティノープル市内で虐殺、略奪、暴行などの蛮行の限りを尽くし、それは後のオスマン・トルコ軍よりもひどいものであったという(同じキリスト教徒に対してでさえこの行状。エルサレム陥落時など地獄絵図そのものであったろう。こうして、1453年の陥落よりも前に、帝国が誇った財宝などはすべて失われてしまったのである。
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