ビザンティン帝国略史

ビザンティン(ビザンツ)帝国は、そもそも395年に分割された古代ローマ帝国の東方部分(東ローマ帝国)が領土縮小やキリスト教の普及によって徐々に変質した帝国である。そのため,いつまでが(東)ローマ帝国で、いつからがビザンティン帝国かは、はっきり定義されていない。

公用語がラテン語からギリシャ語に変わり、帝国の領土がギリシャ・トルコ周辺のみに縮小した7世紀のヘラクレイオス朝からイサウリア朝(シリア朝)あたりが境目とされているが、初めてキリスト教を公認し、コンスタンティノープルに遷都したローマ皇帝コンスタンティヌス1世(4世紀)を最初のビザンティン皇帝とする説や、1453年の滅亡までローマ皇帝位の継承が行われたことから「ビザンティン帝国」という概念そのものを否定する説もある。

帝国の歴史はギボンの「ローマ帝国衰亡史」にも記されているが、単なる衰退の歴史ではない。1000年にわたって繁栄と衰退を繰り返した歴史なのである。

以下は、主に1990年代末期から2000年代初頭にかけて書いた文章なので、それ以降の研究の進展などによって書き換えを必要とする部分がありますが、暫定的にほぼ元のまま公開しておりますのでご注意ください。

前期

前史

紀元1世紀から2世紀、ローマ帝国は「ローマの平和」と呼ばれる繁栄の時代を迎えていた。
しかし、2世紀の末から帝位はめまぐるしく入れ替わり、パルティア、のちにはササン朝ペルシャの侵入も多発するなど、長い混乱の時代を迎えることになる(軍人皇帝時代)。その混乱を収拾したのが、ディオクレティアヌス帝(在位:248-305)である。彼は帝国の東西の正帝と副帝による4分統治、専制君主制への移行などの改革を行って帝国を立て直すことに成功した。しかし、ディオクレティアヌスの引退後は再び帝位争いが起きたが、それに勝ち抜いたコンスタンティヌス1世(大帝。在位:306-337)がローマ帝国の単独皇帝となり、ディオクレティアヌスがはじめた専制君主制の強化を進め、さらに官僚制の整備、それまで迫害されていたキリスト教の公認などの政策を進め、帝国を再建しようとした。

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コンスタンティヌス1世(Wikimedia Commonsより)

当時、ローマ帝国は、対ペルシアの戦略的重要性と、もともとの経済力のために東側の方に重点が置かれていたが、コンスタンティヌスは330年ビザンティウム(現在のイスタンブール。ギリシャ語名ビザンティオン)に首都を遷し、コンスタンティノポリス(ラテン語形。中世ギリシャ語ではコンスタンディヌーポリス。英語名ではコンスタンティノープル)と改名した。(注(もっともコンスタンティヌスはここを本当にローマに代わるローマ帝国の都にまでしようとしたのかどうかは疑問であり、テオドシウス1世の時代になるまで、ここに居住しない皇帝が多かった)。

コンスタンティヌスの再建も空しく、彼の死後はゴート人などのゲルマン諸民族やササン朝ペルシャ帝国の侵入が激化し、広大な帝国を1人で治めるのは困難となった。はじめてコンスタンティノープルに常住し、キリスト教を国教と定めたテオドシウス1世(大帝。在位:379-395)の没後、帝国は東西に分割され、2人の息子アルカディウス(東)とホノリウス(西)に与えられた。これがいわゆる「ローマ帝国の東西分裂」である。これはディオクレティアヌスの4分統治のように1つの帝国を分割統治する意図で行われたことで、決してローマ帝国を2つの国家に分裂させようとするものではなかった、しかし徐々に東西の政府の間は疎遠となり、5世紀に入ると両者は対照的な運命を辿ることになるのである。
(注 – 正確には「新ローマ」という名前もついていたらしい。現在でもコンスタンティノープル総主教の称号は「コンスタンティノープルの大主教、新ローマとエキュメニカルの(世界の)総主教」となっている。

「末期ローマ帝国」の時代

①東西分裂時代(テオドシウス朝・レオ朝)

すでに東ローマ帝国では、フン族のアッティラ王の侵入に対して、テオドシウス2世がコンスタンティノープルに強固な城壁(これがのち1000年にわたって帝国を守ることになる)を築く一方、貢納金を払って西に移動してもらうなど、攻撃をすべて西ローマに振り向けて自国を守ろうとするようになっており、西ローマ帝国に侵入するフン族やゲルマン民族に対しても東の帝国はまったく援軍を出そうとはしなかった(例外として468年に時の東ローマ皇帝レオ1世が、北アフリカのゲルマン人国家-ヴァンダル王国に海戦で挑んだことがあるが、この時は大敗している)。

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476年の東ローマ帝国(オレンジ)と西ローマ帝国(緑)(Wikimedia Commonsより)

ゲルマン民族の侵入と、宮廷紛争で弱体化した西ローマ帝国では、476年にはゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位されると、ついに西の皇帝を称する者は誰もいなくなってしまった。 この時、東ローマ皇帝ゼノン(在位:474-475,476-491)は、オドアケル、ついでそれを倒した東ゴート王テオドリックにイタリアの王(パトリキウス)の称号を授けた。このためローマ皇帝を称するものは、コンスタンティノープルの皇帝だけとなり、旧西ローマ領のゲルマン民族の各部族は、東ローマ皇帝の名目的宗主権の下に自分達の王国を作ることとなった。 これが、いわゆる「西ローマ帝国の滅亡」だが、コンスタンティノープルを首都とするローマ帝国は引き続き存在していたため、同時代の人々にとっては、ローマ帝国の滅亡を意味したものではなかった。
*オドアケルが最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位した際、東ローマ皇帝ゼノンに西ローマ皇帝の位を返上したため、名目的にはゼノンが東西をあわせた全ローマ帝国の単独皇帝となったのである。コンスタンティノープルの皇帝が「唯一のローマ皇帝」を主張した根拠はここにあった。

②古代ローマ帝国最後の繁栄(ユスティニアヌス朝)

東ローマ帝国では名君アナスタシウス1世(在位:491-518)の下で、肥沃な穀倉地帯であるシリアやエジプトを擁することもあって国庫は豊かになり、北からの蛮族の攻撃をはね返せる力をつけていた。

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ユスティニアヌス1世(Wikimedia Commonsより)

527年に即位した、農民あがりの皇帝ユスティニアヌス1世(大帝。在位527-565)は、長年の宿敵ササン朝ペルシャ帝国と和解して東の国境を安定させると、旧西ローマ帝国領を征服すべく、増税を行って着々と戦争準備を整えた。その重税には首都の市民が反発、蜂起(「ニカの乱」)するが、これを武力で鎮圧、古代ギリシャ以来の民主制の伝統を完全に打ち消し、ディオクレティアヌス帝以来進められてきた専制君主制を確立した。この時反乱に戸惑って逃亡しようとした帝を制止した、皇后テオドラ(ヌードダンサー出身)の「帝位は最高の死装束である」という言葉は有名である。

その後は聖ソフィア大聖堂の再建(今でもイスタンブールにその壮麗な姿を残す)や征服戦争を行い、ベリサリウスやナルセスといった将軍達に命じて北アフリカ(ヴァンダル王国)、イタリア(東ゴート王国)、スペイン南部(西ゴート王国)などの旧西ローマにあったゲルマン人諸王国を征服して、ふたたび地中海のほぼ全域をローマ帝国の勢力下に置くことに成功。国内的にはローマの諸法・勅令の集大成である「ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)」の編纂など行って、古代ローマ帝国の栄光を蘇らせ、ユスティニアヌス帝は単性論をめぐるキリスト教の教義問題にも積極に介入し、聖俗の両界に君臨した。

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565年のローマ帝国。オレンジの部分がユスティニアヌスによって再征服された部分。(Wikimedia Commonsより)

しかし、征服した土地は長い戦いの末に荒れ果て(ローマ市の人口は500人にまで減ってしまったという)、戦費や建築費のために国庫は疲弊した。 ユスティニアヌスの死後、その後を継いだユスティヌス2世(在位:565-578)、ティベリウス2世コンスタンティヌス(在位:578-582)、マウリキウス(在位:582-602)の3人の皇帝達には広大な領土を維持するという重荷を背負うことになった。もはや帝国の財政は破綻寸前であり、3人の皇帝達も決して何もしなかった訳ではなかったが余りに荷が重過ぎた。ユスティヌス2世の代にはイタリアの大半をゲルマン人のランゴバルト王国)に奪われ、ペルシャとの戦いも再開。北からはアヴァール人やスラヴ人が侵入し、領土は次々と奪われた。 602年には、アヴァール人・スラヴ人の侵入を迎撃しようとしたマウリキウス帝が軍隊の反乱によって殺害され、その軍隊にかつがれて帝位についたフォカス帝(在位:602-610)の暴政によって国内は混乱。ササン朝ペルシャの侵攻も激化し、帝国は急速に衰退していくのであった。

*高校生向けの教科書や世界史に関する一般書などでは、帝国の最盛期を領土が最大になったユスティニアヌス帝の治世だとしていることが多いが、実際は広大な領土の中は荒廃し、とうてい繁栄したとは言えない。また、旧西ローマでローマ帝国の復活を望んでいた人々も、「ローマ皇帝」ユスティニアヌスの専制的な統治に幻滅し、かえってローマ帝国離れを起こしていったのである。

中期

「東ローマ帝国」から「ビザンティン帝国」へ

①帝国の危機(ヘラクレイオス朝)

フォカスに対して反乱を起したカルタゴ総督ヘラクレイオスの子、ヘラクレイオス(在位:610-641。親子同名)は(彼は公用語をラテン語からギリシャ語に改めたため、以後の皇帝はすべてギリシャ語読み)暴君フォカス帝を倒して即位、民衆の期待を集めた。 ちょうどその頃、ササン朝ペルシャ帝国の帝王ホスロー2世の軍が帝国に侵入し、たちまち小アジア、シリア、パレスチナ、エジプトを占領。キリスト教徒にとって最も貴重な聖遺物である「聖なる十字架(イエスが磔刑に処せられた時の十字架)」も奪われてしまった。

ヘラクレイオス帝はペルシャの本拠であるメソポタミアを直接攻撃。6年にわたる死闘の末に、ペルシャ軍を占領地から撤退させた。首都コンスタンティノープルを包囲したペルシャ・アヴァール連合軍もコンスタンティノープル総主教セルギオスの努力によって撃退、「聖なる十字架」も奪還し、帝国は危機を脱したに見えた。

しかし、今度はアラビア半島からもっと強力な敵が迫ってきた。ムハンマドが開いた新興宗教イスラム教の信仰に燃えるアラブ人である。 アラブ人は死闘で疲れ切った両帝国を攻撃し、ササン朝ペルシャは滅亡。ビザンティン帝国もシリア、パレスチナ、エジプトなどの肥沃な穀倉地帯を再び失ってしまった。しかも北からのブルガール人やスラヴ人の侵入もとどまるところを知らず、バルカン半島のほとんど占領され、残された領土は首都とその近郊、ギリシャの沿岸部と小アジアの西側、イタリアの一部のみ、と、かつての「東ローマ帝国」に比べて見る影もなく縮小した。さらに、海軍を持つようになったアラブ人は655年にリュキア沖(小アジアの南)の海戦で皇帝コンスタンス2世”ポゴナトス”(在位:641-668)率いるビザンティン海軍を撃破、、帝国は古代ローマ以来何とか保ってきた東地中海の制海権も失ってしまった。 コンスタンスは地中海の要衝であるシチリア島のシラクサに宮廷を移し、ここから地中海全域の支配権を再建しようと試みたが、入浴中に家臣に暗殺されてしまった。その後もビザンティン帝国はシチリアや南イタリアの支配権を保持してはいたが、北アフリカやイベリア半島もイスラム教徒の支配するところとなり、ここにローマ帝国の地中海支配は崩壊したのである。

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690年のビザンティン帝国(Wikimedia Commonsより)

コンスタンス2世の息子コンスタンティノス4世(在位:668-685)の頃になると、アラブ海軍が毎年のように海からコンスタンティノープルを包囲、ビザンティン帝国は何とか首都を守るのが精一杯の状態となってしまった。さらには、ドナウ河の南に定着したブルガール人がブルガリアを建国(第1次ブルガリア帝国)し、帝国を脅かすようにまでなった。まさに滅亡の危機、ヘラクレイオス王朝の後半には皇帝のことさえロクに記録が残せないような暗黒時代となったのである。

② 帝国再興への苦闘と聖像破壊(イサウリア朝・アモリア朝)

この滅亡の危機を救ったのは、テマ(軍管区)制度(地方軍の長官が民政をも兼ねること。中国史に詳しい人は、唐末五代の節度使を思い浮かべるとなんとなくわかると思う)による農民の動員と「ギリシャの火」と呼ばれる一種の火炎放射器の力だった。ヘラクレイオス王朝末期の混乱を収拾する形で皇帝となったイサウリア(シリア)王朝の初代皇帝レオーン3世(在位:717-741)は、718年にコンスタンティノープルを包囲したアラブ人を撃退、以後アラブ人の大規模な侵入はなくなり、レオーン3世による法典の再整備や、その息子コンスタンティノス5世”コプロニュモス”(在位:741-775)もバルカン半島のスラヴ人などへの再征服を行い、領土、宗教、制度などの点で古代ローマ帝国の面影を失った帝国は「中世キリスト教ローマ帝国」として再スタートを切った。

ところがレオーン3世、コンスタンティノス5世は、聖像破壊令を発布。これの是非をめぐって聖職者を2分する争い(聖像破壊論争)が起き、ローマ教皇とも関係が悪化。それまでいちおうローマ=ビザンティン皇帝の指導権を認めていたローマ教皇は、それ以後帝国と完全に袂を分かち、797年にローマ帝国史上初の女帝エイレーネー(在位:797-802)が息子のコンスタンティノス6世(在位:780-797。コンスタンティノス5世の孫)から帝位を簒奪して即位したのを機に、「正当なローマ皇帝はコンスタンティノスで絶えた。女帝は認めない」としてフランク王カールを「ローマ皇帝」に担ぎ出してビザンティン皇帝に対抗するようになった。

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802年のビザンティン帝国(Wikimedia Commonsより)

ここに西ローマ帝国滅亡後もかろうじて維持されてきた地中海世界の統一は、イスラム帝国・フランク王国などの西欧諸国・ビザンティン帝国の3つに、完全に分裂することとなったのである。 そんな聖像破壊の嵐も787年にはおさまり(最終的に終結するのは843年)、帝国は新たな発展を迎えようとしていたが、ブルガリアとの抗争、アッバース朝イスラム帝国との戦いや国内のテマの反乱、そして相変わらずの帝位争いなど、まだまだ苦闘は続くのであった。

*聖像破壊令とは-簡単に言ってしまえば、教会に置かれているキリストや聖母マリアの像や、彼らを描いた絵画に向かって礼拝するのは旧約聖書の「モーゼの十戒」で禁じられている「偶像崇拝」にあたるのでそれを禁止し、像を破壊する、という命令のことである。 この命令が発令された背景には、

  1. 偶像崇拝を厳しく戒めるイスラム側からおきたキリスト教批判への対処
  2. 抽象的な絶対神を崇拝する東方(オリエント)文化と、もともとは偶像崇拝の多神教だったギリシャ人の文化(ヘレニズム文化)との対立

という、ビザンティン帝国特有の事情 の2点があると言われているが、正直本当の理由は聖像破壊派の著作が後に異端の書として破棄されてしまったこともあって分かっていない。レオーン3世が東方のシリア出身であり、かつイスラムの首都包囲を撃退した皇帝だった、ということも、彼に聖像破壊令を出させた大きな要因でもあったようだ。 しかし、ローマ教皇はゲルマン人のキリスト教化のためには聖像が必要だと考えており、またギリシャ人達も古代の記憶からか抽象的な神のみの礼拝には抵抗があったようである。このため帝国内でも小アジアや帝国の中央軍では 聖像破壊派が多かったが、ヨーロッパ側では聖像擁護派がほとんどでギリシャでは反乱が起きるほどであった。かくして787年の第2ニカイア公会議で聖像崇拝が復活するが、その後も何度か聖像破壊が行われ、9世紀まで対立は残った。東方正教会では平面の絵(イコン)のみが用いられるようになり、現在に至っている。

ビザンティン帝国の全盛時代と没落のはじまり

①帝国の全盛時代(マケドニア朝1)

6世紀の末から長く混乱が続いていた帝国であったが、9世紀から10世紀にかけて、兵役・租税を担う自立した小農民の存在(ここが荘園制の西欧と大きく違う)と、首都コンスタンティノープルを中心とした商工業の発達(特に官営工場で独占生産される絹織物は西欧諸国の羨望の的であり、「現代における石油に匹敵する力を持っていた」と言われるくらいの有力な輸出品だった)によって財政・軍事力が安定するようになった。

アモリア王朝の第2代皇帝テオフィロス(在位:829-842)および、その子のミカエル3世(在位:842-867)の時代から帝国の興隆がはじまった。 宗教面でもコンスタンティノープル総主教フォティオスの活躍や、キュリロス・メトディオス兄弟らによるスラヴ民族へのキリスト教布教などでコンスタンティノープル教会の権威は増した。

宮廷内の陰謀は相変わらずで、ミカエル3世は867年にアルメニア人出身のバシレイオスによって殺害されてしまう。しかし、そのバシレイオスがバシレイオス1世(在位:867-886)として即位してマケドニア王朝(867-1057)の時代に入ると行政・軍事・文化の面でそれぞれ有能な皇帝が輩出し、フランク王国やアッバース朝イスラム帝国、中国の唐王朝などの大帝国が衰退していくのを尻目に経済・軍事両面で躍進を遂げ、東地中海の強国の地位を取り戻した。 行政面では、イサウリア王朝時代から始まったテマの細分化が完成し、バシレイオス及びその息子レオーン6世(在位:886-912)によって官僚制や法律の整備によって皇帝の専制が完全に確立した。軍事面では、東方では以前とは逆にイスラムに対して攻勢にまわり、北のスラヴ人に対しては、苦しい戦いを繰り返しつつキリスト教の伝道を進めていった。10世紀末には遠くロシアまでもが正教会を受け入れるまでになったのである。

文化面でも発展を遂げた。既にアモリア王朝時代から帝国史上屈指の知識人だったフォティオスらによって古代ギリシャ文化の復興がはじまり、バシレイオス1世の孫の皇帝コンスタンティノス7世”ポルフュロゲネトス”(在位:913-959)の下では、ヘラクレイオス王朝時代以降の暗黒時代に忘れ去られそうになった古典文化の復興が進んだ(マケドニア朝ルネサンス)。

10世紀の後半に入るとニケフォロス2世フォカス(在位:963-969)、ヨハネス1世ツィミスケス(在位:969-976)、バシレイオス2世”ブルガロクトノス”(在位:976-1025)の3人の軍人皇帝によって各地への征服が進められ、東地中海の制海権をイスラムから奪還、その気になればエルサレムやローマをも征服できる程の勢いとなった。

3代目の軍人皇帝バシレイオス2世は、1018年に宿敵ブルガリアを征服してバルカン半島のほぼ全域を回復、かくて専制皇帝バシレイオス2世の支配は、東はアルメニア・シリアから、南はクレタ・ロードス島、北はドナウ川、西は南イタリアに至る全帝国領に行き渡り、国境も安定、地中海最強の帝国として全盛期を迎えたのである。 人口30万を擁する首都コンスタンティノープルは繁栄し(当時のパリの人口は約1万であった)、帝国発行のノミスマ金貨は後世「中世のドル」と呼ばれるほどの強さと信頼性を誇り、国際的貨幣として流通していた。あまりの繁栄のために宮殿の倉庫に宝物が入りきらなくなって、バシレイオス2世の命で拡張されたくらいだったのである。

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バシレイオス2世(Wikimedia Commonsより)
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1025年のビザンティン帝国(Wikimedia Commonsより)

しかし、繁栄の陰では徐々に貴族による大土地所有制が進み、兵役・租税の基本的な担い手である自立小農民が没落、財政と軍事の安定性が崩れ始めていた。バシレイオス2世はこれを食い止めようと努力したものの効果を上げられないまま、1025年嫡子を残さずに没した。彼の死後、早くも帝国に衰退の兆しが見えるようになったのである。

②下り坂へ(マケドニア朝2)

バシレイオス2世が嫡子を残さずに死去したあと、共同統治者であった弟コンスタンティノス8世(在位:1025-1028)が統治するが、享楽に耽った挙げ句3人の娘のみ(しかも、未婚、かつ40代後半)を残して死去、帝位は娘のうちのゾエと結婚したものに委ねらることになった。このため官僚、貴族や宦官、そしてゾエの思惑も絡んで宮廷内での暗殺や陰謀が多発、さらには首都市民の暴動まで起き、皇帝はめまぐるしく入れ替わった。

そうこうしている間に大土地所有制はさらに進み、兵役を担うはずの自立小農民が消滅、帝国軍は傭兵制に移行し、財政を圧迫するようになっていった。にもかかわらず皇帝達は建築事業などをおこし、宮殿の倉庫にうなるほどあった財宝も失われていった。このため軍事費の削減が行われて軍隊は弱体化。折悪しく、トルコ人やノルマン人の侵入がはじまり、せっかく手にした領土も次々と失い、ノミスマ金貨の悪鋳や売官などのために経済力も衰えていった。 ゾエの3人目の夫コンスタンティノス9世モノマコス(在位:1042-1055)の時代には、コンスタンティノープル総主教ミカエル1世ケルラリオスとローマ教皇レオ9世(正確にはその使節の枢機卿)が相互破門し(いわゆる「東西教会の分裂」。当時はあくまでも教会のトップ同士の破門であって、教会そのものの分裂を意図したものでは無かった)、その影響は現在にまで続く事になるのである。

帝国中興とその挫折

①帝国の中興(ドゥーカス朝・コムネノス朝1)

マケドニア王朝の血統断絶後も帝位は安定せず、帝位をめぐる内乱が続いた。その間に帝国は次々と領土を失っていき、1071年には、皇帝ロマノス4世ディオゲネス(在位:1068-71)率いる帝国軍が小アジア東部のマンツィケルト(マラーズギルド)の戦いで、セルジューク朝のスルタン、アルプ・アルスラーンの軍勢に大敗し、皇帝ロマノス4世自身が捕虜になるという屈辱(ローマ皇帝としては、ササン朝ペルシャの捕虜となった3世紀のヴァレリアヌス帝以来)を受けることとなった。この後ビザンティン側が宮廷の内紛のために戦後処理を誤ったこともあって、小アジアにはトルコ人がなだれ込み、小アジアの大半がセルジューク朝の手に落ちてしまったのである。
そんな中即位したアレクシオス1世コムネノス(在位:1081-1118)は、大貴族に大土地所有を認める代わりに軍事力を提供させる形(プロノイア制度)で帝国を再編成、かくて帝国は軍事貴族の連合体になったのである。またアレクシオスは、トルコ人からの領地奪回のために西欧に援助を依頼、これが第1回十字軍となる。アレクシオスは十字軍を利用して、トルコ人から領地を奪回、またヴェネチアに貿易特権を与えることで経済と海軍力の回復を図った。息子の名君ヨハネス2世コムネノス(在位:1118-1143)は、父の政策を継いで北方のペチェネグ人を討ち、小アジア沿岸部の領土を回復。再び帝国は東地中海の強国の座を取り戻したのである。

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アレクシオス1世(Wikimedia Commonsより)
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ヨハネス2世(Wikimedia Commonsより)
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1170年のビザンティン帝国(Wikimedia Commonsより)

ヨハネスの息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143-1180)は、外交戦略を駆使し、またイタリア、キリキア・シリア遠征を行うなど積極的な軍事行動を起こしローマ帝国の栄光を再現しようとした。しかしヴェネチアと対立してヴェネチア人の一斉逮捕を行って関係を悪化させ、イタリア遠征は西欧に反ビザンティン帝国感情を持たせただけで失敗。またミュリオケファロンの戦い(1176年)でセルジューク朝にも惨敗してしまった。マヌエルの努力は度重なる遠征などによる国庫の疲弊、周辺諸国との関係悪化を産んだだけで終わってしまった。

②帝国の破滅(コムネノス朝2・アンゲロス朝)

1180年のマヌエル1世の死後、幼い息子のアレクシオス2世コムネノスが即位するが、1182年にはマヌエルの仲の悪い従兄弟アンドロニコス・コムネノスが実権を握り、翌年にはアレクシオス2世は殺害されてしまった。アレクシオスから帝位を奪ったアンドロニコス(アンドロニコス1世コムネノス、在位:1083-1085)はマヌエル1世の治世末期に疲弊・弛緩した国政の改革を強力に推し進めようとしたが、やがて改革は逆らう者への弾圧を伴うようになり、これに反発した貴族や首都市民は1085年にコムネノス家の姻戚であったイサキオス・アンゲロスを擁して反乱を起こし、アンドロニコスは怒った首都市民たちによって殺害された。

アンドロニコスの死後、イサキオス・アンゲロスが皇帝に即位(イサキオス2世、在位:1085-1095)し、アンゲロス朝が始まるが、イサキオスの失政によってブルガリアは再び独立、海軍は弱体化して東地中海の制海権はヴェネチア・ジェノバなどのイタリア都市国家の手に落ちてしまった。 こんな状況にもかかわらず王朝内ではイサキオス2世とアンゲロス3世の兄弟による帝位争いが頻発、それに介入したヴェネチアなどによって、第4回十字軍はエルサレムから一転して、その矛先をコンスタンティノープルに向けるに至る。既に海軍力を失っていた帝国は十字軍に海から首都を攻撃され、1204年の4月に首都は陥落、十字軍によってラテン帝国が建国(1204-1261)され、各地でギリシャ人たちの亡命政権が抵抗を続けるが、ここにビザンティン帝国は一旦滅びる事になる。 首都陥落時に、十字軍兵士達はコンスタンティノープル市内で虐殺、略奪、暴行などの蛮行の限りを尽くし、それは後のオスマン朝によるものよりひどいものであったという。こうして、1453年の陥落よりも前に、帝国が誇った財宝などはすべて失われてしまったのである。

後期

落日の老帝国

つかのまの復活(ニカイア帝国・パライオロゴス朝1)

第4回十字軍によるコンスタンティノープルの陥落後も、旧帝国領の各地でギリシャ人達が亡命政権を立てた。例として挙げられるのは、トレビゾンド帝国(アンドロニコス1世コムネノスの子孫)エピロス専制候国(アンゲロス家)などであるが、もっとも力をつけたのは小アジアのニカイアを首都としたニカイア帝国(ラスカリス家)である。

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第4回十字軍直後のビザンティン世界(Wikimedia Commonsより)

ニカイア帝国は、初代のテオドロス1世ラスカリス(在位:1204-1222)、ヨハネス3世ドゥカス・バタヅェス(在位:1222-1254)らの農業振興などによる経済力の増大と、モンゴルの侵入による小アジアのトルコ系諸国やブルガリアの弱体化という偶然によって勢力を拡大、西欧人勢力や他のギリシャ人勢力に対して優位に立つようになり、小アジアの西半分とバルカン半島南部を制圧したが、コンスタンティノープルの奪回だけはなかなか果たせなかった。

そのような中で、皇帝テオドロス2世(在位:1254-1258)が若くして死去。狡猾な大貴族ミカエル8世パライオロゴス(在位:1261-1282)は、幼帝ヨハネス4世(在位:1258-1261)の摂政、そして共同皇帝となり虎視耽々と単独皇帝の地位を狙っていた。

1261年、ついにニカイア帝国はコンスタンティノープルを奪回してビザンティン帝国が復活した。これを機会にミカエル8世はヨハネス4世を廃位して単独皇帝となり、帝国最長にして最後の王朝であるパライオロゴス王朝を創始した。

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1263年、コンスタンティノープル奪回直後のビザンティン世界(Wikimedia Commonsより)

帝国は復活したが、その姿はもはや地中海の覇者でも東欧世界の盟主でもない一国家に成り下がっていた。そして、それさえアンジュー伯シャルルなどの西欧勢力に再征服を狙われていた。ミカエル8世は、外交戦略を巧みに駆使して帝国領を西欧勢力から防衛し、荒廃した首都コンスタンティノープルの再建に努めたが、息子のアンドロニコス2世(在位:1282-1328)が軍事・経済政策を誤り、ビザンティン帝国は再建されてからわずかのうちに再び弱体化していくことになる。

その頃東方ではオスマン朝が興隆、徐々に帝国を脅かすようになり、また西方ではセルビア王国が帝国領に侵入、経済はイタリアの諸都市の手に握られ、しかも国内では相変わらずの帝位争い……とまったくいいところがなく、帝国はみるみるうちに衰退、領土的には「帝国」とは呼べないほどの小国となってしまった。
窮地の中、一部の人々は「ギリシャ人」という自覚を取り戻し、古代ギリシャ文化に自らの栄光を見出そうとしたため復古的な文化の花が開いた(パライオロゴス朝ルネサンス)。それはまさに帝国最後の輝きといってよいものであった。

「ローマ帝国」の最期

帝国の滅亡(パライオロゴス朝2)

14世紀になるとビザンティン帝国の領土は、コンスタンティノープル周辺と、ギリシャに残る小候国のみにまで縮小し、帝国はオスマン帝国の属国と化してしまった。14世紀末の皇帝マヌエル2世(在位1391-1425)は西欧に援助を求めて遠くイングランドまで旅をしたが援助は得られず、帝国はコンスタンティノープルをかろうじて維持するのみとなってしまった。 1402年にスルタン・バヤジット1世率いるオスマン軍がアンカラの戦いでティムールに敗北し、オスマン帝国が一時解体するというチャンスにも、何も失地回復のために動くことが出来ない程に帝国の力は落ち込んでしまっていたのだ。

Byzantine Empire 1435 AD
1435年のビザンティン帝国とトレビゾンド帝国(Wikimedia Commonsより)

マヌエル2世の死後も、2人の息子ヨハネス8世(在位:1425-1448)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1448-1453)が東西教会の合同や西欧への援軍依頼など帝国維持への努力を重ねたが全て失敗し、ついに1453年、オスマン朝の若きスルタン、メフメト2世率いる10万の大軍の包囲を受けるに至った。s
皇帝コンスタンティノス11世は降伏を拒否し、帝国の人々は7千対10万という圧倒的不利な状況の中、2ヶ月にわたって戦い抜いた。しかし、1453年5月29日未明、オスマン軍の総攻撃の前にコンスタンティノープルは陥落、コンスタンティノス11世はなだれ込んでくるオスマン軍の中に姿を消し、ここにビザンティン帝国は1000年にも及ぶ、その長い歴史を閉じる事となった。残ったビザンティン系国家(モレア専制侯国・トレビゾンド帝国)も1461年にはオスマン朝に全て征服され、ギリシャ人は19世紀までその独立を奪われたのである。

ビザンティン帝国の滅亡後もドイツには「神聖ローマ皇帝」がおり、また、ロシアのモスクワ大公イヴァン3世がコンスタンティノス11世の姪ゾエ・パライオロギナと結婚して「皇帝(ツァーリ)」を名乗り、モスクワは「第3のローマ」と称した。しかし、コンスタンティノス11世の戦死を以って初代の「元首」アウグストゥス以来の正統なローマ皇帝は絶え、ローマ帝国は完全に滅びたのである。

帝国滅亡後、イタリアへ亡命したギリシャ人達によって、ギリシャ古典文化が伝えられ、イタリア・ルネサンスの起爆剤となった。また、東欧・ロシアにおいては正教の伝統が残った。
帝国は滅んだが、その伝統は形を変えててヨーロッパに受け継がれているのである。