パレオロゴス朝時代におけるブリュエンニオス家の末裔たち

 佐藤二葉先生の、日本でおそらく初めての商業作品ビザンツ漫画『アンナ・コムネナ』が絶賛連載中&単行本発売中ですが、その主人公であるアンナの夫ニケフォロス・ブリュエンニオスの実家でアドリアノープル(現在のトルコ・エディルネ)の軍事貴族だったブリュエンニオス家の末裔たちの話題を女子美術大の平野智洋先生に頂いたので、先生のメールを引用しながらご紹介したいと思います。

 さて、話中でニケフォロス・ブリュエンニオスは「パンヒュペルセバストス」(いとも至高なるセバストス)の爵位を受けていますが、これはアレクシオス1世の義兄ミカエル・タロニテスのために作られた爵位で、彼がニケフォロス・ディオゲネスの陰謀に連座して爵位を没収されたあとに与えられたものです、したがって、ニケフォロス・ブリュエンニオスはおそらく史上2人目ということになります(井上浩一『歴史学の慰め』p.77および根津由喜夫『ビザンツ幻影の世界帝国』p.26)。後にニケフォロスはさらに高位のカイサルになるので、アンナも『アレクシアス』では「我がカイサル」と書いていますが。

 この「パンヒュペルセバストス」が記録上最後に出てくるのはパレオロゴス朝のヨハネス5世時代の1371年12月5日に陰謀の廉で逮捕された有力者の一人ヅァンブラコン某(個人名不明、推定年齢20代前半)なる人物だそうで、平野先生曰く、15世紀成立の短編年代記に記録があるとのこと(P. Schreiner, Die byzantinischen Kleinchroniken, t. I-III, Wien, 1975-1978, I. 94[Chronik 9-23]))だそうですが、実はこの時の逮捕者の中にはマヌエル・ブリュエンニオス(マヌイル・ヴィリエニオス)という人物もおり、彼らは共治帝アンドロニコス4世パレオロゴスの取り巻きだったようです。このマヌエル・ブリュエンニオスは他の史料には出てこないのでブリュエンニオス家のうち、どういう家系の子孫かは不明だそうですが、ブリュエンニオス家の成員はコムネノス朝時代から200年近く下った時代でも皇帝の周囲にいる有力なメンバーを輩出していたことになります。

 パレオロゴス朝時代のブリュエンニオス家が、アンナとニケフォロス夫妻の子孫かどうかはわかりません。アンナの子供たちは公式には父方の皇室の姓「コムネノス」か父方の祖母の姓で前の王朝の姓である「ドゥーカス」しか名乗っていないのです。

 ただ、平野先生曰く、

家名の問題ですが、特に後期では自らに繋がる家名(男系・女系を問わず)を長々と連ねる事例も少なくなくなり、公文書での署名・言及は勿論、写本挿絵や教会壁画の銘文で3-4の家名を連ねて記す事例はかなり当たり前のように見られます。

 ヴリエニオス家の例で言いますと、公式の場では「コムニノス一門」である事を強調してアレクシオス・コムニノス(アンナの長男/母の父系の籍)、ヨアニス・ドゥカス(同次男/母の母系の籍)と名乗りましたが、本来的にはそれぞれ「コムニノス・ヴリエニオス」「ドゥカス・ヴリエニオス」という複合的な家名を保持しており、世代が下った後にはそれぞれの分家の由来を示し、加えて、コムニノス家の血を引かない他のヴリエニオス家支流とも区別する為に公式にも名乗るようになったのではないかと思われます。ヴリエニオスは少し追跡がしづらい事例ですが、コンドステファノス家などはコムニノス姓よりも父方の姓を名乗っているようですね。

 その後、かつて「コムニノス一門」であったヴリエニオス家それ自体の家格も高いものと見なされるようになり、その縁に連なる者がヴリエニオス姓を他の姓に加えて名乗る事例も出てきます(単独でヴリエニオス姓を名乗った人々も勿論います)。14世紀中頃には「ヴリエニオス・ラスカリス」という家名の保持者が現れ、これが恐らく後期で最も有力な分家となったようです。

 つまり、ひょっとしたらアンナとニケフォロスの末裔がブリュエンニオス家の成員として存続していた可能性もあるわけです。

 さらに平野先生曰く

社会最上層のヴリエニオス姓保持者は、13世紀中葉のセサリア(テッサリア)有力者マリアシノス(マリアセノス)にまでは遡る事が出来る様です。一族はパレオロゴス家との姻族関係もあり、13世紀末には「皇族」と見なされていたようです。ちなみに彼らのフルネームは非常に長く、二代目当主の名は、

 ニコラオス・コムニノス・アンゲロス・ドゥカス・ヴリエニオス・マリアシノス(ニコラオス・コムネノス・アンゲロス・ドゥーカス・ブリュエンニオス・マリアセノス)

でした(姓が5つあります)。この一族は14世紀前半に一旦足跡が途絶えますが、恐らく断絶はせず何らかの形で後の有力分家に繋がっているのではないかと思われます。このあたりについては、一度資料を集めていたのですがそのままお蔵入りになっていました。どこかでまとめてみたい所ですね。

・E. Trapp, Prosopographisches Lexikon der Palaiologenzeit, Wien, 1976-1995, no. 16522, 16523.

 マリアシノス家に関しては故米田治泰先生が概観を取り上げていますね(「メリセノス家」として扱われています)。

  さて、先ほど出てきた分家のブリュエンニオス・ラスカリス家はさらに分家を作って繁栄していたようで、再び平野先生曰く

このヴリエニオス・ラスカリス家から14世紀末に「ラスカリス・レオンダリス(古い読み方でレオンタレス)」という分家が現れ、15世紀には「ヴリエニオス・レオンダリス」家が派生し、外交活動に従事しています。その一人アンドロニコス・ヴリエニオス・レオンダリスは最後の皇帝コンスタンディノス11世パレオロゴス(1449-1453)の使節として教皇ニコラオス5世(1447-1455)の許に、また専制公ディミトリオス・パレオロゴス(1449-1460)の使節としてモデナ公ボルソ・デステ(1452-1471)の許に派遣されています(Sp. P. Lambros, Palaiologeia kai Peloponnisiaka, t. I-IV, Athenai, 1912-1930, IV. 48, 198)。

ヴリエニオス・ラスカリス・レオンダリス家の成員(14-15世紀)は、

 Erich Trapp, Prosopographisches Lexikon der Palaiologenzeit, Wien, 1976-1995, no. 14529*, 14548*, 14668*-14670*, 14673, 14674, 14676-14677, 14679, 14681*-14682*, 14684-14689, 14691.

に記載があります。この内、ヴリエニオス姓の保持者に*印を付けてあります。また13-15世紀に単独でヴリエニオス姓を名乗った人物は同書のno. 3240-3262に記載されています。200年間の人物としてはかなり少ないですね。

 また、ヴリエニオス・ラスカリス・レオンダリス(ブリュエンニオス・ラスカリス・レオンタレス家以外にも系統不明のブリュエンニオス姓の人物がパレオロゴス朝時代にはいるそうでして、比較的広く知られていたのは、聖職者・文人であったようです。この辺りはアンナの夫ニケフォロスがどちらかというと軍事貴族の出でありながら文人肌の人物であったのに通じるものがあるのかもしれません。

・マヌイル・ヴリエニオス(マヌエル・ブリュエンニオス) 活動期間: 1300-1320年間。 天文学者・数学者。ホラ(コーラ)修道院の献堂者として有名なセオドロス・メトヒティス(テオドロス・メトキテス)の師匠の一人で、天文学に関する著作を残しています(Trapp, Prosopographisches Lexikon, 3260)。

・ヨシフ・ヴリエニオス(ヨセフ・ブリュエンニオス) 1350年頃生-1431/1438年間死去。 教会教師を務めて「哲学者(フィロソフォス)」の尊称で呼ばれ、後に修道士になっています。コンスタンティノープルや皇帝に関する頌詩といった修辞学的作品、また聖霊(東方正教会での聖神)に関する教説など、比較的多作の知識人・教理学者です(Trapp, Prosopographisches Lexikon, 3257)。

 一般的にはニケフォロス3世に反乱を起こして後のアレクシオス1世に鎮圧された祖父の方のニケフォロスとアンナの夫ニコフォロスしか出てこないブリュエンニオス家ですが、こうしてみるとビザンツの滅亡寸前の時期に至るまで、一族は政治的・文化的に重要な人物を輩出していたことになります。

 情報をお寄せ下さった平野先生、ありがとうございました。

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